ぐりとぐらはかすてらの糖質量を知らない

 

 それは、ごく普通の食べ物だった。そして、かすてらではなくホットケーキに近かった。使っている食器もメープルシロップも日々キッチンで目にするものであり、私の日常空間であるという事実を強調していた。溶け残りのバターをナイフで撫でつけ、「かすてら」にオイルの染みを広げた。

 その隣で、パートナーは朝食の「かすてら」を黙々と口に運んでいる。視線はテレビモニタにくぎ付けだ。ストーリーがしっとり穏やかに進むドラマを流し、登場人物達のささやきのような会話に意識を集中している。「かすてら」をナイフで一口サイズにカットしては口に運び、気まぐれにメープルシロップを追加し、また口に運ぶ。ふたつの事を同時に進行するのが苦手な私にとって、食べるべき物や見るべき物を取り違えること無く進むこの動作の仕組みというのは、とても理解し難いものだった。しかし、こんなふうに食事をしている時、パートナーが口にしている物の味に満足しているということを、私は知っていた。

 

 「かすてら」というのを作って食べているのには理由がある。朝起きると、唐突にぐりとぐらのかすてらを思い出したのだ。昨晩見た夢がそう思わせているのかも知れない。夢の内容は忘れた。ノスタルジックなもやがかかったような心持ちの寝起きだったから、何か昔の夢でも見ていたに違いない。ぐりとぐらが手作りした大きなかすてらに、大きく想像を膨らませた幼い頃の自分を思い出した。

 『ぐりとぐら』という絵本の中で、大きな大きなかすてらが登場する。野ねずみの「ぐり」と「ぐら」が自分たちの身体の何倍もの大きさの卵を使ってかすてらを作り、森の仲間たちにふるまうのだ。ぞうさんやワニさんが食べても無くならないベッドのようなかすてらは、どれほど美味しくふかふかで、どれほど甘いにおいがするのだろうと、心弾ませた記憶がある。そんな遠い昔の出来事なんて、今日まですっかり忘れていたけれど。

 

 ぐりとぐらのかすてらには公式レシピが存在していた。検索エンジンで上位に表示されるページを開き、子どもの心でかすてらを求めた私は、大人の頭でレシピを読んだ。かすてらはレシピ通りの分量で作ってもベッドのような大きさにはならない。なぜなら、私の身体は野ねずみよりもずっと大きく成長してしまったからだ。

 

 幼い頃の期待に応えられるような大きさではないけれど、レシピの倍量の材料を使い、大皿からはみ出すほどの「かすてら」が完成した。甘くて優しいにおいがする。幼い頃の期待感を胸に抱き、ぞうさんやワニさんのように頬張った。そして、それはごく普通の味がした。

 夢のような味はしないし、身体がはねるほどふかふかでもない。普段、休日の朝食として用意するホットケーキそのものだった。粉と同じ重さの砂糖を加えて焼き上げ、たっぷりのメープルシロップをかけて食べている。一食あたりの糖質量を計算したくない食べ物だ。

 

 糖質量のおおよそを想像していると、いつの間にか、私はぐりとぐらの世界とはほど遠い住民となっていた。幼い頃の私は、ぐりとぐらの世界の仲間になりながら、かすてらの味と柔らかさと、卵のにおいを思っていた。糖質などという言葉は知らなかった。粉や砂糖の重さをグラムで量ることも、きれいな焼き色のためにテフロン加工のフライパンで焼くことも知らなかった。何も知らなかったから、私はあの世界の住民として存在した。何も知らなかったから、夢のような味を確信できた。

 

 パートナーは相変わらず無言で口を動かしている。最後のひと切れとなり、再びメープルシロップをたっぷりとかけて名残押しそうに口にした。漫画のひとコマであれば、「もっしょもっしょ、ごくん、」と擬音が書かれるような食べっぷりで、満足げな目をしてソファによりかかった。

 休日の、太陽が上がりきった頃の朝である。満たされたお腹にゆるやかな時間が流れ、仕事に追われる平日とは切り離された、のんびりとした空気が漂う。私は朝食で取りすぎた糖質量を相殺しようと、低糖質な昼食のメニューを検討した。パートナーは、食べすぎたー、と言って伸びをした。幸せそうに、そう言った。

 

 幼い頃の私もぐりとぐらも、糖質量なんて知らない。その事実は彼らを空想の世界の住人とした。だからもう、たくさんの知識と現実を頭に叩き込んでいる私は、夢の味を経験することはできないだろう。

 

 けれども。

 

 忙しい日常の合間の、のんびりとした朝に満腹なふたり。

 この世界も、ちっとも悪いものじゃない。

 

ある夏、とても贅沢な夜のひとときに、うるつや肌に思いを馳せる

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 評判通り、食事も大変美味しかった。心もお腹も十分すぎるくらいに満たされて、良い気分で外に出た。あぁ、星がきれいだね、とパートナーが言った。そうだね、こんなに輝いて見えるんだね、と私は答えた。履きなれない下駄は歩みをのんびりとさせるけれど、このひとときをいつまでも楽しみたい私たちにとっては素晴らしいアイテムだった。

 

 昨年の夏、「隠れ家的な、古民家風の、オーナーのこだわりがすごい、ぜんぜん予約がとれない宿、」に宿泊した。早い時期に予約をしてくれたパートナーがそう説明した時はどうにも胡散臭さを感じたが、到着してみるとその人気ぶりに合点がいった。

 宿は一棟貸しであった。宿泊客は古民家を一軒借りることができる。数棟しか用意されていないため一日の客数が少なく、庭のつくりやスケジュールの工夫によって他人の存在すら忘れさせてくれた。建物は木造の平屋で小さな露天風呂つきだ。ひと家族にはもったいないくらいの広々とした部屋に、景色が見渡せる大きな窓。デッキとデッキチェアが違和感無く置かれていて、その先の景色までもがプライベートな空間として用意されていた。何時でも人や建物が視界に入ることの無いロケーションなのである。

 食事は別の棟で頂くとのことだった。宿泊棟から外に出て、小道を歩き、別の棟にお邪魔する。いろりを囲む部屋に入ると、既に炭が焚かれていた。夏の夜空が見える窓辺でぱちぱちとはじける音を耳にするのは、たまらなく心地よかった。

 

 食事を終え、私たちは夜空を仰ぎながら小道を歩く。部屋までのほんの少しの距離が豊かな時を紡いだ。小道の両脇にはバレーボールのような丸い足元灯がいくつも並んでいる。灯りをたよりに集まった無数の虫たちが、黒い影を描いていた。

 

 かえるだ、

 私はパートナーをつついた。無数の黒い影の大半は、かえるだった。目を凝らすと、右の灯りにも、左の灯りにも、その先の灯りにもかえるがへばりついていた。大きな瞳が光を受けて艶めき、なんとも愛らしい。つややかな身体をしている。

 

 「いいなぁ、お肌うるつやで、」

私は顔を近づけ、ある一匹のかえるに話しかけた。

「でしょう?大変なんだよ、このうるつやを維持するためお手入れって。」

かえるはそう答えた。

「私、生まれ変わったらかえるになりたいんだよね。瞳がとっても大きくて、お肌うるつや、手足ぴとぴと、ひとはねでずっと先まで行けるんでしょう?」

「そうかな、、、かえるなんてそんな楽な生き方じゃないと思うけど。うるつや肌のためにとりわけきれいな水滴を探さなくちゃいけないし、毎日逃げるご飯を追いかけなきゃいけないし、」

難儀するぞぅ、とかえるは生意気な口調で言った。

 

 などと、胸の内でかえるのアフレコをしながら手を伸ばすと、私の指からのがれようとしたかえるは、みごとにおしっこを放出した。わずかにうるつやの背に触れた私の指を存分におしっこで濡らし、軽々と地面に降り立って、間もなくふたつみっつと飛び跳ね姿を消した。

 

 おしっこ、、、

 中腰でかたまる私に起きた悲劇を察し、パートナーはけらけらと笑った。私たちは下駄を地面に擦りながら早足で部屋に向かう。

 「こういうときのために、おしっこだって我慢してなくちゃいけないし。大変そうでしょう?」

 かえるがけろけろと笑いながら、そう言った。

 

 

 

#今週のお題「カメラロールから1枚」

 ある宿の足元灯に登る、かえるの写真です。

 

パイナップルに精神的なアレルギーを持っているのは、村上龍のせいなんだから

 

 夏の気配を感じるころ、スーパーの入り口近くにヘタと皮がついたパイナップルが並ぶ。カットフルーツとしてのパイナップルを見慣れているから、ことさら目を引く。爬虫類の身体のような身と天井に向かって伸びる緑色のかさかさした葉っぱ。顔を近づけると蒸した甘い匂いがする。

 

 パイナップルの熟れた匂いは、汚物にまみれたキッチンをイメージさせる。シンクにはケチャップがこびりついた皿と飲み残した汁物が入ったカップが放置され、汚物にまみれた排水溝に水が溜まっている。テーブルの上には食べかけのパイナップルが置かれていた。一方の面では鮮やかな黄色を保ちながら、もう一方の面は黒く変色し腐敗が進んでいる。濁った液体が小さな皿を満たすほどに染み出て、甘酸っぱい腐敗臭を漂わせていた。排水溝から立ちのぼる臭気とないまぜになりキッチンの外にまで充満する。

 

 ほんのひと時、汚れ切ったイメージに捉われ、少しの不快感となつかしさを心に留めた。しかし、私はパイナップルが嫌いじゃない。皮が程よく黄色がかり、かさかさの葉っぱがひらりと落ちない特別な固体を選定し、買い物カゴに入れた。

 

 腐敗したパイナップルのイメージは、村上龍限りなく透明に近いブルー』という小説の中で、物語を通して描かれていた。混沌とした日常、性と汚物にまみれた人々。やりきれず暴発しそうな感情と、澄んだ水色のような希望に馳せる思い。そして、日常にまとわりつくパイナップルの腐敗臭と、男と女の身体の臭い。

 もうすっかりストーリーを忘れてしまったのだが、イメージは頭にこびりついている。中学に入学したばかりのころ、町の図書館で偶然手に取りページをめくった。男女の行為ばかりが描かれていて、手に汗がにじんだ。私は本棚の前でしゃがみ込んでページをめくり続けた。とてもいけないことをしている気持ちになった。

 

 それ以来、精神的パイナップルアレルギーを患っている。あの熟れた甘酸っぱい匂いをかぐと、どうしても腐敗のイメージが頭をよぎる。しかし、食するのは問題ない。口に入れてしまえば現在の記憶に書き換えられる。さわやかで甘酸っぱいただのフルーツになるのだ。ジューシーな果肉を楽しみながら、生まれ育った町の図書館を思い起こすのが常だった。

 

 数日後、十分に熟れたパイナップルを切り分けパートナーと一緒に食べた。部屋に甘酸っぱい匂いが満ちた。パートナーは、私がパイナップルに汚れ切ったイメージを持っていることを知らない。図書館の本棚の前で村上龍の小説を読みふける二十年前の私のことも知らない。

 思い出もパイナップルに抱くイメージも何ひとつ変わらないのに、毎日の生活と私を取り巻く人たちは常に最新化されていった。あの時の私は、歳を重ね、実家を出て、パートナーを持ち、そして村上龍のパイナップルを思いながら食卓を囲むなんて、想像もしなかった。

 

 甘くて美味しいねぇ、と言葉を交わしながら、ふと、未来の私に思いを馳せた。この先もっと歳を重ねても、今日と同じく穏やかに食卓を囲んでいるだろうか。何が変わってゆき、何が変わらずに残るのだろうか。先に食卓から姿を消すのは、私だろうか、パートナーだろうか。私はひとりきりの食卓でパイナップルを口にする日を迎えるのだろうか。その時も、やはり臭気に満ちたキッチンと腐敗しかけたパイナップルを思うのだろうか。

 

 いずれ必ず訪れる最後のひとときを思い、胸が痛んだ。こんな風に感傷的になるのは、あの時よりも随分と歳を重ねたせいに違いない。

 

 いや、違う。

 汚れ切ったパイナップルのイメージをいつまでも脳内に引きずり込んでくる、あの小説のせいだ。

 そうだ、村上龍のせいなんだから。

 

上司から、休みたかったら勝手に休めと言われ、新型コロナウィルスより自身の無能さにおびえた話し

 

「だったら、休めばいいんじゃない?」

 電話口で私の上司は苛立っていた。有給でも欠勤でもして勝手に休めば良いだろう、というのだ。業務は継続されている。もし明日から勝手に休んだら、私の仕事を負担するのは隣の席のメンバーだ。電話口で面倒そうに苛立つ上司ではない。そして、私ひとりが数週間と休んだら、この現場に私の席は無くなるかも知れない。

 とりあえず通常通り働きます、と伝え電話を切った。

 

 帰宅途中、午後8時半、近所のローソンストアの前。緊急事態宣言発令後、徐々に人通りが少なくなった。在宅勤務者が増えたようだ。私もステイホームしたい。


 私は都内で下請けエンジニアとして働いている。いわゆるSESという業態を採用している会社の社員だ。会社は自社サービスを持たず、様々な現場にエンジニアを出向させ技術提供をしている。だから自分の会社の人間とはあまり面識がない。先ほど電話で話していた上司とも同じ場所で働いているわけではない。しかし彼は、フォローだとかマネジメントだとかいうお仕事をするために、たびたび電話をかけてきては勝手に苛立ったり、ご機嫌良くエールを送ってきたりする。


 4月7日、緊急事態宣言が発令された後も、私が勤務する現場は業務を継続している。元請け会社の限られた人間のみ、急ぎ足で在宅勤務の環境を整え、逃げるように職場から遠のいた。下請け会社の人間は在宅勤務の環境を与えられず、毎日職場に足を運ぶしかなかった。

 私は自身をSF映画の主人公に例えた。地球はもうだめだ、みんな急ぎ足で他の惑星に避難していく。身寄りもお金もない私は、同じような孤児たちとともに、破滅へと向かう地球の大地にうずくまり自身の境遇を嘆くことしかできないのであった。

 

 というわけで、地球の終焉を思わせるようなガラガラの山手線に乗車し、シャッター街と化した飲食店通りを横目に通常通り出勤している。職場の隣の席の同僚とは濃厚接触の仲だ。飲み物でむせては、もしやコロナ?と冗談を飛ばし、深刻なマスク不足を嘆き合い、一緒に日々の感染者数速報を確認する事が日課となった。


 緊急事態宣言発令から2週間ほど経過し、テレビでもネットニュースでも日々自粛が強く求められた。美容院やパチンコ店の営業可否が長々と議論される一方で、社員がデスクワークを行う業種については、できるだけ在宅勤務でしてください、と一言で片づけられてしまった。

 自分は大丈夫だと思わないでください、命に関わる事態です、おうちにいましょう。

 繰り返し繰り返し唱えられ、冗談を言い合っていた私たちもこの環境にストレスを感じはじめていた。オフィスビルは窓が開かない、出勤人数も多い、マスクが手に入らず多くの人間がマスク未着用になっている。

 見えないウィルスに恐怖を抱くと同時に、日々増えていく在宅勤務者をうらやましく思う気持ちも芽生えた。仕事の合間に抱き枕を抱えてごろごろと寝転がったり、ランチにオムライスを作って大量のケチャップをかけて食べたりして良いんだ、いいなぁ。

 

 そして、ついに時は来た。

 職場のビルの別フロアで新型コロナウィルス感染者が発生したのだ。感染者は複数名存在するとのことだ、クラスタ発生なのか。私たちが勤務するフロアと異なっているとは言っても、エレベータやエントランスは共用している。感染者とすれ違った人間の数は多いはずである。

 いよいよ私たちも業務停止か、長い休暇になるぞ、引き出しの中に詰め込んである食べかけのお菓子を片付けなければ。

 と、期待を込めた不安で胸をときめかせていたが、ときめきはみごとに裏切られ、私たちは何も通達を受けなかった。

 うそだろう、いや、連絡が遅れているだけだ、これから何か指示が出るはずだ。

 そわそわしながらメーラーの送受信ボタンを押しては新情報をチェックした。仕事そっちのけで送受信ボタンを押した。しかし、やはり私たちに通常通り出勤という以外の選択肢は提示されなかった。

 

 ある下請け会社は、うちの社員は出勤を削減させてください、という独自の対応をはじめた。少しの希望を抱き、私は自社の上司にメールを入れた。
 現場の建物内で感染者が出ました、出勤するのが怖いです、会社としての対応はなにか無いのでしょうか。
 すぐに血の気の多い上司から電話がかかってきた。その口調は明らかに苛立っている。

 「だったら、休めばいいんじゃない?」

 このおじさんはどう言う了見なのか。これほどセンシティブな問題に対して、苛立ちと有給取得の強要とも捉えられる発言で部下の言葉を失わせるとは。上司とは、マネジメントとは、役職手当とは。

 

 ローソンストアの明かりに照らされながら、私は電話を切った。会社として対応できることは何も無いようだ。下請け零細企業だから仕方が無い。

 まあ、そうだろうと思った。

 そうだ、最初から大して期待していなかったのだ。それよりも、私の言葉を失わせたのは、私がこの人の部下だという事実だった。私はこのおじさんの部下でしかなく、そしてこの零細企業の平社員でしかないのである。

 

  ローソンストアに入り、つまらない柄のノートとサラダチキンを買った。

  勉強しよう、もっと勉強してできるようになって、在宅勤務で仕事の合間に抱き枕でごろごろできる会社に勤めよう。このノートに目標を書いて、朝早く起きて、たくさん勉強しよう。ついでにたんぱく質もたくさん摂取して筋トレして、明日は素敵な私になってやるんだ、そうしよう。