上司から、休みたかったら勝手に休めと言われ、新型コロナウィルスより自身の無能さにおびえた話し

 

「だったら、休めばいいんじゃない?」

 電話口で私の上司は苛立っていた。有給でも欠勤でもして勝手に休めば良いだろう、というのだ。業務は継続されている。もし明日から勝手に休んだら、私の仕事を負担するのは隣の席のメンバーだ。電話口で面倒そうに苛立つ上司ではない。そして、私ひとりが数週間と休んだら、この現場に私の席は無くなるかも知れない。

 とりあえず通常通り働きます、と伝え電話を切った。

 

 帰宅途中、午後8時半、近所のローソンストアの前。緊急事態宣言発令後、徐々に人通りが少なくなった。在宅勤務者が増えたようだ。私もステイホームしたい。


 私は都内で下請けエンジニアとして働いている。いわゆるSESという業態を採用している会社の社員だ。会社は自社サービスを持たず、様々な現場にエンジニアを出向させ技術提供をしている。だから自分の会社の人間とはあまり面識がない。先ほど電話で話していた上司とも同じ場所で働いているわけではない。しかし彼は、フォローだとかマネジメントだとかいうお仕事をするために、たびたび電話をかけてきては勝手に苛立ったり、ご機嫌良くエールを送ってきたりする。


 4月7日、緊急事態宣言が発令された後も、私が勤務する現場は業務を継続している。元請け会社の限られた人間のみ、急ぎ足で在宅勤務の環境を整え、逃げるように職場から遠のいた。下請け会社の人間は在宅勤務の環境を与えられず、毎日職場に足を運ぶしかなかった。

 私は自身をSF映画の主人公に例えた。地球はもうだめだ、みんな急ぎ足で他の惑星に避難していく。身寄りもお金もない私は、同じような孤児たちとともに、破滅へと向かう地球の大地にうずくまり自身の境遇を嘆くことしかできないのであった。

 

 というわけで、地球の終焉を思わせるようなガラガラの山手線に乗車し、シャッター街と化した飲食店通りを横目に通常通り出勤している。職場の隣の席の同僚とは濃厚接触の仲だ。飲み物でむせては、もしやコロナ?と冗談を飛ばし、深刻なマスク不足を嘆き合い、一緒に日々の感染者数速報を確認する事が日課となった。


 緊急事態宣言発令から2週間ほど経過し、テレビでもネットニュースでも日々自粛が強く求められた。美容院やパチンコ店の営業可否が長々と議論される一方で、社員がデスクワークを行う業種については、できるだけ在宅勤務でしてください、と一言で片づけられてしまった。

 自分は大丈夫だと思わないでください、命に関わる事態です、おうちにいましょう。

 繰り返し繰り返し唱えられ、冗談を言い合っていた私たちもこの環境にストレスを感じはじめていた。オフィスビルは窓が開かない、出勤人数も多い、マスクが手に入らず多くの人間がマスク未着用になっている。

 見えないウィルスに恐怖を抱くと同時に、日々増えていく在宅勤務者をうらやましく思う気持ちも芽生えた。仕事の合間に抱き枕を抱えてごろごろと寝転がったり、ランチにオムライスを作って大量のケチャップをかけて食べたりして良いんだ、いいなぁ。

 

 そして、ついに時は来た。

 職場のビルの別フロアで新型コロナウィルス感染者が発生したのだ。感染者は複数名存在するとのことだ、クラスタ発生なのか。私たちが勤務するフロアと異なっているとは言っても、エレベータやエントランスは共用している。感染者とすれ違った人間の数は多いはずである。

 いよいよ私たちも業務停止か、長い休暇になるぞ、引き出しの中に詰め込んである食べかけのお菓子を片付けなければ。

 と、期待を込めた不安で胸をときめかせていたが、ときめきはみごとに裏切られ、私たちは何も通達を受けなかった。

 うそだろう、いや、連絡が遅れているだけだ、これから何か指示が出るはずだ。

 そわそわしながらメーラーの送受信ボタンを押しては新情報をチェックした。仕事そっちのけで送受信ボタンを押した。しかし、やはり私たちに通常通り出勤という以外の選択肢は提示されなかった。

 

 ある下請け会社は、うちの社員は出勤を削減させてください、という独自の対応をはじめた。少しの希望を抱き、私は自社の上司にメールを入れた。
 現場の建物内で感染者が出ました、出勤するのが怖いです、会社としての対応はなにか無いのでしょうか。
 すぐに血の気の多い上司から電話がかかってきた。その口調は明らかに苛立っている。

 「だったら、休めばいいんじゃない?」

 このおじさんはどう言う了見なのか。これほどセンシティブな問題に対して、苛立ちと有給取得の強要とも捉えられる発言で部下の言葉を失わせるとは。上司とは、マネジメントとは、役職手当とは。

 

 ローソンストアの明かりに照らされながら、私は電話を切った。会社として対応できることは何も無いようだ。下請け零細企業だから仕方が無い。

 まあ、そうだろうと思った。

 そうだ、最初から大して期待していなかったのだ。それよりも、私の言葉を失わせたのは、私がこの人の部下だという事実だった。私はこのおじさんの部下でしかなく、そしてこの零細企業の平社員でしかないのである。

 

  ローソンストアに入り、つまらない柄のノートとサラダチキンを買った。

  勉強しよう、もっと勉強してできるようになって、在宅勤務で仕事の合間に抱き枕でごろごろできる会社に勤めよう。このノートに目標を書いて、朝早く起きて、たくさん勉強しよう。ついでにたんぱく質もたくさん摂取して筋トレして、明日は素敵な私になってやるんだ、そうしよう。