パイナップルに精神的なアレルギーを持っているのは、村上龍のせいなんだから

 

 夏の気配を感じるころ、スーパーの入り口近くにヘタと皮がついたパイナップルが並ぶ。カットフルーツとしてのパイナップルを見慣れているから、ことさら目を引く。爬虫類の身体のような身と天井に向かって伸びる緑色のかさかさした葉っぱ。顔を近づけると蒸した甘い匂いがする。

 

 パイナップルの熟れた匂いは、汚物にまみれたキッチンをイメージさせる。シンクにはケチャップがこびりついた皿と飲み残した汁物が入ったカップが放置され、汚物にまみれた排水溝に水が溜まっている。テーブルの上には食べかけのパイナップルが置かれていた。一方の面では鮮やかな黄色を保ちながら、もう一方の面は黒く変色し腐敗が進んでいる。濁った液体が小さな皿を満たすほどに染み出て、甘酸っぱい腐敗臭を漂わせていた。排水溝から立ちのぼる臭気とないまぜになりキッチンの外にまで充満する。

 

 ほんのひと時、汚れ切ったイメージに捉われ、少しの不快感となつかしさを心に留めた。しかし、私はパイナップルが嫌いじゃない。皮が程よく黄色がかり、かさかさの葉っぱがひらりと落ちない特別な固体を選定し、買い物カゴに入れた。

 

 腐敗したパイナップルのイメージは、村上龍限りなく透明に近いブルー』という小説の中で、物語を通して描かれていた。混沌とした日常、性と汚物にまみれた人々。やりきれず暴発しそうな感情と、澄んだ水色のような希望に馳せる思い。そして、日常にまとわりつくパイナップルの腐敗臭と、男と女の身体の臭い。

 もうすっかりストーリーを忘れてしまったのだが、イメージは頭にこびりついている。中学に入学したばかりのころ、町の図書館で偶然手に取りページをめくった。男女の行為ばかりが描かれていて、手に汗がにじんだ。私は本棚の前でしゃがみ込んでページをめくり続けた。とてもいけないことをしている気持ちになった。

 

 それ以来、精神的パイナップルアレルギーを患っている。あの熟れた甘酸っぱい匂いをかぐと、どうしても腐敗のイメージが頭をよぎる。しかし、食するのは問題ない。口に入れてしまえば現在の記憶に書き換えられる。さわやかで甘酸っぱいただのフルーツになるのだ。ジューシーな果肉を楽しみながら、生まれ育った町の図書館を思い起こすのが常だった。

 

 数日後、十分に熟れたパイナップルを切り分けパートナーと一緒に食べた。部屋に甘酸っぱい匂いが満ちた。パートナーは、私がパイナップルに汚れ切ったイメージを持っていることを知らない。図書館の本棚の前で村上龍の小説を読みふける二十年前の私のことも知らない。

 思い出もパイナップルに抱くイメージも何ひとつ変わらないのに、毎日の生活と私を取り巻く人たちは常に最新化されていった。あの時の私は、歳を重ね、実家を出て、パートナーを持ち、そして村上龍のパイナップルを思いながら食卓を囲むなんて、想像もしなかった。

 

 甘くて美味しいねぇ、と言葉を交わしながら、ふと、未来の私に思いを馳せた。この先もっと歳を重ねても、今日と同じく穏やかに食卓を囲んでいるだろうか。何が変わってゆき、何が変わらずに残るのだろうか。先に食卓から姿を消すのは、私だろうか、パートナーだろうか。私はひとりきりの食卓でパイナップルを口にする日を迎えるのだろうか。その時も、やはり臭気に満ちたキッチンと腐敗しかけたパイナップルを思うのだろうか。

 

 いずれ必ず訪れる最後のひとときを思い、胸が痛んだ。こんな風に感傷的になるのは、あの時よりも随分と歳を重ねたせいに違いない。

 

 いや、違う。

 汚れ切ったパイナップルのイメージをいつまでも脳内に引きずり込んでくる、あの小説のせいだ。

 そうだ、村上龍のせいなんだから。